【読書感想】ショウペンハウアーの「読書について」が胸に響きすぎる~読書の害悪について~

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お久しぶりです。
さかせです。

今回はショウペンハウアーの「読書について」を読んだ感想について書いていきます。

早速ですが、この本は久しぶりの凄い本です。
どれくらい凄いかと言うと、ブログにまとめたいのにまとまりきれず、結果、ブログの更新が途絶え「お久しぶりです」という出だしから記事を書き始めなければいけない程です。(!)

「読書について」は珍しく「読書の害悪」について書かれています。

なので今まで手放しに「読書最高!お勧め!」と言ってきた僕にとっては心に痛い文章が次々書かれています。

特に頭に残った事柄について引用しながら取り上げていきます。

読書は他人に考えてもらう行為

本を読むとは、 自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。

そういうわけで重圧を与え続けると、 バネの弾力がなくなるように、 多読に走ると、 精神のしなやかさが奪われる。 自分の考えを持ちたくなければ、 その絶対確実な方法は、 一分でも空き時間ができたら、 すぐさま 本を手に取ることだ。

つまり自分で考える人は、まず 自説を立てて、 あとから権威筋・文献 で学ぶわけだが、それは自説を強化し補強するためにすぎ ない。 しかし 博覧強記の愛書家は文献から出発し、 本から拾い集めた他人の意見を用い て、 全体を構成する。 それは異質な素材を寄せ集めて作られた自動人形 のようなものだ。

わかっているようでわかっていなかった読書という行為。
僕はすっかり忘れて「自分で考える力」を失っていました。
読書に力を入れ始めたのは2016年の10月ごろからですから、僕はほぼ1年で考える力を失ったことになります。

具体的に「考える力がなくなる」とはどういうことでしょうか。
僕の場合は

  • 本の内容が頭の中で整理しにくい。
  • あらかじめ話す内容を頭の中で構成できない(したくない)

といった感じです。
「考えられない」というよりは「考えるよりもインプットしたい」というほうが近いです。
これはジョン・トッド. 自分を鍛える!―――「知的トレーニング」生活の方法の一節

妄想が入り込む 余地のないほど頭を使っていれば、 たとえ 仕事に変化 を 持たせることで 何一つ 得るところが なくとも、 くだらないことに頭 を 使っていないという満足感は得られるのだ。

妄想の部分を
「自分の考えることは取り留めのない妄想だろう。だから、本を読んで頭を使おう」
と履き違えた解釈をしたことにより生じた失敗ともいえるかもしれません。

この場合は「自分の考えに価値はない」という低い自己評価からくる過ちでもあるので、もっと自己効力感を上げないといけないなあと思うところであります。。。
特にブログでは必要なスキルですし。

頭を使う、ということに関して言えば、何も考えずにボーっとする状態は「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれ、無意識からのひらめきが起きやすい状態であることがわかっています。
また、デフォルト・モード・ネットワークのときのほうが脳が消費するエネルギーは大きくなります。
読書もほどほどにしてボーっとすることが大事ということですね。

 

先に述べた「あらかじめ話す内容を頭の中で構成」というのは、僕がブログをするうえで大切な要素であり、僕のコミュニケーション能力の根幹を成すものであったため、真っ先に取り戻したい能力です。
このことについては詳しく別の記事で取り上げようと思います。

自国の言葉を崩さない

ショウペンハウアーはドイツの哲学者のため、本書に書かれている巷にあふれる文体への批判はほとんどがドイツ語によるものです。
しかし、そのほかにも「書くことについて」本質を突く言葉をいくつも述べています。

へぼ作家の大部分は、その日に印刷されたもの以外読もうとしないおめでたい読者のおかげで生計を立てている。すなわちジャーナリストだ。じつに適切なネーミングだ。ジャーナル[日々]の糧をかせぐ人、わかりやすく言えば「日給取り」だろうか

書くとき、素材をじかに自分の頭から取り出す人物だけが、読むに値する書き手だ。

特にドイツ人はできるかぎり曖昧で漠たる表現を押し通すことに懸命で、そのため、なにもかも霧につつまれ、おぼろにかすむ。どの文にも逃げ口上を用意しておくのがねらいらしい

ドイツ語の文章は、互いに入り組んだ長い挿入文を満載し、リンゴを詰めたガチョウの丸焼きのように盛りだくさんだ。読むのにあらかじめ時間を気にしてはならず、何よりもまず記憶力が求められる。(中略)
こうした文章が伝える中途半端な切れ切れの言辞を、読み手は注意深くとりまとめ、よく記憶しておかねばならない。

匿名批評家がつく真っ赤な噓ほど、あつかましい噓はない。なにしろ無責任だ。あらゆる匿名批評は欺瞞をめざしている。だから警察は、覆面をしたまま往来を歩くのを許さないように、匿名で書くのを見のがすべきではない。

.このようにショウペンハウアーは
「小銭稼ぎのために本を書いてはいけない」
「無駄にわかりにくい文章を書いて悦に入り、読者の貴重な時間と記憶を使わしてはいけない」
「匿名を使うものは恥じるべきだ」
と、物書きに対して現代でも(日本でも)十分に通じる批判をしています。
このブログも上記すべてが当てはまって心が痛く、しばらく書くことについて考えさせられました。

ショウペンは父親の遺産で死ぬまで苦労せず学問に励めたので、せめて「お金稼ぎのためのブログ」は許して…と思うところです。

最近僕自身が本を読んで気になるのは「文章の中で反論を入れる」文章です。
話がつながっているようで一度離れるので、全体としてスムーズに読めなくなります。想定される反論は後で別の章で取り上げるか、反論が生まれる議論の穴も克服済みな主張をあらかじめしておくほうが読んでいてスッキリすると思います。

他人の話の腰を折るのは無作法だが、こうした文構造でみずから自分の話の腰を折るのも、それに劣らず無作法だ。

この一説でピンと来たのが上記の考えです。

文章の説得力を増やすべくたくさんの主張を詰め込むタイプも読んでいてしんどいです。
自分もこうならないように気を付けようと思います。

悪書(新書)を読まず良書(古典)を読む

 ショウペンハウアーは、「本なんて読むな!」とは言っておらず、「古典や原著を読め!」と言っています。

いま大評判で次々と版を重ねても、一年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないこと

常に読書のために設けた短めの適度な時間を、もっぱらあらゆる時代、あらゆる国々の、常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品へ振り向けよう。私たちを真にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だけである。

良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるのだから。

ギリシア・ローマの古典作家を読むことほど、精神をリフレッシュしてくれるものはない。

ここに書かれていることは現代にでも通用する話で、むしろ現代のほうが重要になっています。
例えば「1年で寿命が尽きる」本。最近は集客のために執筆をする起業家が増えており、ゴーストライターに書かせて知名度を上げる作戦をとる人もいます。
堀江貴文さんも著書で「自分の本は誰かに書かせて濃い話はコミュニティで話す」といった内容を語っています。

本を読み始めると、ついつい本屋の新書コーナーに目が行き、「あれもこれも読みたい」などと、新書コンプレックスになってしまいます。
こうした事態にならないために、戒めとして「新しいものには手を出さない」と心に決めておくのもありだと思います。

まとめ

この「読書について」は、「読書に自主性を取り戻す本」です。
なので「ショウペンハウアーの言うことすべてを信じるぜ」となってしまうと、本書の言いたいことが何もわかっていないことになります。
しかし、この本には作家が語らない読書の害悪についてしっかりと書かれていますから、大いに参考にするべきでしょう。

僕の場合は

  • 何気なく読むなら岩波文庫講談社学術文庫を読む(林先生と渡部昇一氏がおすすめしていた)
  • 古典がない分野の本は、それについて最初に書かれた本から読む
  • 目的意識をもって本を買う
  • 多読にこだわらず、頭に残った知識を活用するまでを読書とする

という新しい読書の指針が出来上がりました。

書くことについては

  • わかりやすくも整った日本語を使う
  • 文章の構造をスマートにする
  • 文章でも会話でも逃げ口上には気を付ける

というように、主にブログで気を付けていきたいと思います。

 

「読書について」は僕はkindle Unlimitedで読みましたが、本にしても非常に薄いので、現在読書に励んでいる人も、これから読書を始める人も、今すぐに読んでほしい本です。

 

ではでは

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)